寛容の原理と人間性の原理

  • R.Grandy, `Reference, Meaning and Belief', Journal of Philosophy 70, 1973, pp.439-452.

いろいろな意味でルーズな再構成。寛容の原理The Principle of Charityは他人の発話を受けて、その人に志向的内容を持った信念を帰属する場合に関わってくる。しかし、Grandyによれば寛容の原理には欠点がある。代わりに人間性の原理The Principle of Humanityを考えなきゃならん。それらは例えば次のケースに離反する。

話はドネランの指示論のアレの場面である。例は変える。ある人はパーティに来たとする。そこでその人は「ウィスキーを持っている人は哲学者だThe man with a glass of whisky is a philosopher.」と言ったとしよう(ただし、直示を伴わず)。しかし視野の範囲内にはウィスキーを持っている人はいない。ウーロン茶を持っている人なら一人だけいるが、彼は哲学者ではない。しかも、そこからは見えないし見たこともない庭の方には、実際にウィスキーを持っている哲学者がいるとしよう。さて、我々はこの「ウィスキーを持っている人は哲学者だ」という発話をいかに理解したらよいだろうか。

ここでGrandyは、寛容の原理によると、発話を真にするように理解しなければならないということになる、と考えているようだ。すると、我々はその人に見たこともない状況を察知する特殊な能力を帰属することになる。が、これは変だ。ここで働く原理は、その人が我々と同じように知覚し、推論するということ、すなわち彼が人間であるということを考慮に入れる原理である。すると、そんな特殊な能力があるわけもないので、彼の言明は額面通り受け取られるべきものではなくて、偽なる言明だということになる。そして彼の志向的状態もまったく異なるものとなる。この人間性の原理とは、私がもしその状況にあったなら〜だろうという想像において働くのである*1

・・・何か変じゃないか?寛容の原理ってこんな硬直したものだっけ?この辺に詳しい人、もとい、詳しくなければならない人、今度会ったときに聞きますので身構えていてください。てか問いつめます。

*1:Grandyは気づかないだろうが、これは自我の想像的移入による他我の理解というフッサールの第五省察そのまんまである。