「アングロサクソン」とか「大陸系」とか

アングロサクソンと一括りにされるものの、イギリスとアメリカの哲学スタイルはかなり違う。共通の議論の土台を作り、なるべく明晰な言語で論争を立てようとするタイプのものは、どうも「アメリカ哲学」だと感じる。「イギリス哲学」はもっと粘っこく、基礎的な問題を問い直しつつ、留保の多い感じ。確かにサッチャーの大学大改悪で「イギリス哲学」はほとんどアメリカに流出したとはいえ、結局イギリス哲学はアメリカでそんなに広範に受け入れられているわけでもないので、何となく違いがまだあるように思われる。「アングロサクソンは分かりやすい言葉で書いてあるから、読めば分かる」んだろうか。「大陸系」は基礎的なものを反省的に問い直しつつ、基礎を自ら作ろうとするものならば、それは逆に分かりやすい(ただし、言語の使い方が悪い人たちを除く*1)。しかし「アングロサクソン」の場合、共通の土台ってのはほとんど何の言及もされずに前提されているので、分かりやすいつもりで読んでも実は何にも理解していないということが(当の「アングロサクソン」の哲学者たちにおいても)ある。「大陸系」の人が片手間で読むと、ことにそうなることが多い*2。ま、優劣をつけるつもり、どころかこの区分がきちんと存在するとも言うつもりはないが。

でさ、最近注目の北欧系はまたひと味違うのだよ。

*1:って除いたら残るのは誰?w

*2:しかも土台の一部となっている論理学や数学を踏まえていなかったり。一階述語論理の完全性までと初等集合論くらいは踏まえて欲しいんですが。例えば、指示とか意味とか言っているときは少なくともまず最初は集合を用いたタルスキ意味論が思い浮かべられているわけだし。