戸田山和久、『科学哲学の冒険』、日本放送出版協会、2005.

私の専門は数学の哲学のつもりだが、科学哲学についてほとんど知らない(科学哲学、という名で呼ばれているものはたいてい「経験科学の哲学」であり、その知識が数学の哲学で使えるかどうかはすぐには明らかではない)のでこの本は非常に参考になった。特に、科学哲学は科学の基礎付けや限界付けをするのではなく、科学的営みを理解しようとする試みであるという主張は、いまだそのように考える科学者(や哲学者)の多い中、とても嬉しいものだった(数学の哲学の場合、現にそのような基礎付けの時代が明確にあったため、印象としては強いものがある)。その割には、この本は科学的方法の正当化は科学の内部で行われなければならない、という仕方で再び科学の正当化の話に戻っているように思われる(科学の外部からの正当化は拒否しているのではあるが)。もともと科学哲学(の一般論)というのが確かにそういう正当化をする分野なので、仕方ないのかもしれない。
近年の成果を盛り込んでいることや、読みやすいことからもかなりいい本であるが、少し気になることを書いておく。まず、ポパー反証主義の話。反証主義をヒュームの帰納法の懐疑への応答として位置づけるのは、何も知らない私には印象深かったが、反証主義は「極端な見方」(p.95)とされながら、なぜ極端なのかはあまり言われていないように思われる。科学と非科学の区別という論点が提出されるが、それは反証主義への批判として十全に展開されているわけではない。そもそも帰納法は科学で広範に使われているから、それを拒否するのは極端すぎる、という理由なのだろうか。
そしてもう一つは、「意味論的捉え方」について。私にはこれで「文パラダイム」と何が変わっているのか今ひとつ分からない。確かに観察文を演繹して直接検証する、という話ではないが、このモデルと言われているのはタームモデルのようなものに思われてしまう。だとすると、果たして文を基本とするのとモデルを基本とするのにどこまで有効な差があるのだろうか、私にはよく分からない。加えて、このモデルの「実在との類似」についてほとんど何も分からなかった。「程度を許す関係を理論と実在システムの間にみとめることができるところが、意味論的捉え方の最大の強みだ」(pp.248f.)と書いてあるが、私にはこれは最大の弱点であるように感じられた。類似性は程度を許すだけでなく、観点に相対的でもある。何を持ってあるモデルが他のモデルより実在により似ているのだろうか。科学から独立の実在など手に入らないのだから、おそらくそれは、どちらがより科学的事実を説明できるかという科学内部の経験的問いになるのだろう。しかしここでの「科学的事実」とはいったい何か。こういう考えになじんでいない私にはすぐにはよく分からなかった。むしろ、必要なのは科学哲学で論争になっている「対象」や「実在」という概念が、科学的推論の中でどのような役割を果たしているのかについての概念分析ではないのか。
最後に、第一哲学ではないものを自然主義とする二分法(p.34)はクワインの`Epistemology naturalised'に沿っているものだろうが、ここに「自然主義」という語を使わないでほしい、というのが第一哲学主義でも自然主義でもない私の希望である。少なくともこの「自然主義」を第九章の自然主義や、物理主義とも言われる存在論自然主義と一緒に考えられては困る。
さて、私はこの本を最後までずっと、経験科学の哲学/方法論の本だと思って読んできたが、最後になって数学の哲学も科学の哲学とされていること(p.291)に気づき、少し驚いた。今まで見聞きしたことからすると、戸田山先生は数学の哲学において反実在論を取っているように思われる。果たしてそれはこの本で展開された科学的実在論とどのようにつながっているのだろうか。というわけで次こそは数学の哲学の本ですよね、「センセイ」。