自己知について(1)

自己知self-knowledgeについて。この間、この手の話題に詳しい人たちと話していたら、どうも話がかみ合わない。私はどうも自己知に関して特殊な考えを抱いているらしい。先週一気に書いたものだが長いので3回に分ける。

自己知についての話題は分析哲学の中で近年大きな話題になりつつある。自己知はおそらく自分の信念や欲求についての自己観察、メタ観察のことなんだろうか。現象学が「内的気づき」とか「自己触発」と言ったりするものと類似的に考えていいんだろうか。例えば、水が飲みたいという欲求は何らかの探求を必要とせずに分かる。とりあえずは以下に関係ないので曖昧でいいのだが、押さえておくべきポイントがある。それは自己知は、直接的−−何らかの探求を必要とせずに得られる−−であることと、透明であること*1、の二つである。

で、私が考えているのはそういう事態ではない。確かに、自分がやっていることや信念内容、欲求内容はたいていの場合、自己知によって分かる。しかしそういう通常の場合は、まさに自己知が確実であるがゆえに、自己知は何の役にも立っていない。だとすると、ことさらに自己知が問題になるのはどういうケースなのか。これは、自己知をどのような場合において問題にするか、という問いである。そして、私の自己知の理解がずれているのはまさにこのパラダイム・ケースが異なっていること、による。

私にとって自己知が問題になるのは、自らの信念や欲求に対する他人からの問いかけに答える場合においてである。つまり、

  • 「哲学なんかやって、お前は将来どうするつもりなんだ?」

とか

  • 「本当は私のことどう想っているの?」

とかいう問いかけである。私はこのような他人の問いに対して答える/応えるresponseことによって、責任responsibilityを果たす。そしてこのとき、自分の「私は〜と思っている/〜したい」という応答の正当性の根拠として存在するものが、自己知であると考える。なぜなら、この応答に対して「どうしてそうなの?」と問い返された場合は、この問いが信念や欲求の由来に関するものでないなら、「なぜならそう思うからだ」と応答せざるを得ない。それ以上は遡ることのできない、直接的な自己知が正当性の根拠となっている。

ここで責任という言葉は奇妙、あるいは重いように思われるかもしれない。しかし、例えば「何したい?」という問いかけに「何でもいいや」と答える人は「無責任である」と形容されうる*2。責任とはこのような、十全な応答能力/責任response-abilityのことである。

(明日に続く)

*1:透明であることは不可謬であること、さらに明晰判明であることをたぶん意味しない。

*2:もちろん、往々にしてこの場合はあまりに一般的すぎる問いの方が悪い。