自己知について(2)

(昨日の続き)

さてそして、私の自己知に対する疑念は、まさにこのような場合を念頭に置いているからこそ生まれる。他人からの信念、欲求に対する問いかけに答えて責任を果たす場合に、自己知がその正当性の根拠となるわけだが、このような応答は、問いかけが「重い」ものであればあるほど難しくなる。「自分はこれがしたいんだ」という自己知に基づいて応答したとしても、その後で「やっぱり違ったかもしれない」という後悔が生まれる余地がある。こういう場合を典型として、自己知によっては決定不全である、すなわち自己知だけを根拠として確実な応答をすることはできない。

むしろ、自己知による決定不全性は否定的な現象であるにとどまらない。まさに、ここでは決断が必要なのである。自己知によって開かれる、自分の信念や欲求についての様々な可能性のうち、最終的にはどれかを選択して応答しなければならない。決定とは、他の可能性を排除することである。そして、おそらくここに人格や主体といった概念の住処がある。主体性のない人とは、まさにこのような決定不全性から決定できない人間のことを言うだろう。人格とは、論理的あるいは経験的法則によっては決まることのない決定不全な状況に置いても決定する(したがって本質的に「非合理的」な!)システムのことを言う。

そういう状況から見ると、まさに決定不全な状況からの決定は「暗闇の中への跳躍leap in the dark」*1である。そしてこれは当たり前の事実である。すなわち、自己知はもともと不完全であるから。自己知が直接的で透明である、ということは無いからである。自己知によって知りうる、自分の信念や欲求はごくわずかな部分でしかない。自分が本当にどのような信念をもち、欲求を持つのかは簡単に知りうるものではない。なぜなら、信念や欲求は自分の知りうる領域とは異なる領域で活動するものであるから。ここではやはり、次の言葉を引用しなければならない。

器官なき身体の上の種々の離接点は、欲望する諸機械を中心としてその周囲にいくつかの収斂する円環を形成している。この場合、主体は、欲望する機械の傍の残りものとして(すなわち、その機械の付属物、あるいはその機械の隣接部分として)生みだされ、離接点が形成する円環のあらゆる状態を通過して、ひとつの円環から次の円環へと移ってゆく。主体自身は中心にいるのではない。中心は機械によって占められている。主体は周縁に存在し、固定した一定の自己同一性をもたない。それは、常に中心からずらされ、自分が通過する諸状態から引き出されてくるものでしかない。(ドゥルーズ=ガタリ、『アンチ・オイディプス』、邦訳p.34)

あるいは、

意識は、力能のより小さな全体からより大きな全体への、またその逆の、そうした推移というか推移の感情として現れてくるのであり、どこまでも過渡的なものだ。けれども意識は<全体>それ自体の特性ではないし、個別的などんな全体のもつ特性でもない。意識は情報としての価値しかもたないし、その情報にしても混乱した断片的なものであらざるをえない。(ドゥルーズ、『スピノザ』、邦訳p.35)

といった言葉たちを。

(明日に続く)

*1:これはもともと、クリプキが規則のパラドクスについて述べた言葉である。