合理性と心

標準的な議論によれば、だいたい合理的な振る舞いをする行為者にのみ、心を帰属することができる。我々*1が合理的にその振る舞いを解釈できる行為者にのみ、例えば信念を持つという状態を帰属することができる。さて、このために必要とされる合理性は「だいたい」である。ちょっとくらい非合理的な振る舞いをしたとしても、突然心を持たないことになるわけではない。逆に言うと、完全に合理的な行為者など存在しない。だから合理性の基準を厳密に適用してしまうと、元も子もないことになる。

さて、この「だいたい」の合理性は単に我々が完全に合理的になり得ないから、「だいたい」でなければならないのだろうか。むしろ、逆にそもそもある程度不合理であることは、心を持つことの基準であると考えることはできないだろうか。すなわち、あまりにも合理的な行為者を我々は心を持つものとして理解できないのではないだろうか。そのような行為者は、一挙一頭足に至るまで合理的に理解できるのである。彼が次に何をするか、のみならず遠い将来の任意の時点に至るまでその行為は我々によって完全に予測可能である。それはただプログラムが作動しているようなものだろう。

合理性は必要だが、ある程度合理性から逸脱していることも必要であるように思われる。あまりにも合理的な行為者は我々にとっては逆に非合理的であるかもしれない。この発想の目標は、神は非合理であるというテーゼを述べることにある。

*1:って誰。こういうときの「我々」はacademic we以上のものなのか。