相対音感という才能

私は絶対音感の持ち主である。3音くらいまでだったらピアノで同時に弾かれて当てられる。A音を発声しろと言われればほぼ出せる。通常、絶対音感は一つの才能のように言われる。しかし、少なくとも私の感覚からいえばそれは逆だ。すなわち、相対音感が一つの才能なのである。

昔、よく学校での音楽の授業は、相対音階によってなされていた。突然、F音を「ドとする」ということが行われて、かなり混乱するのが常だった。F音はF音であって、「ド」と呼ばれるべき音、すなわちC音ではどうしてもありえないはずなのに。絶対音感からする相対音階の違和感は、たぶん次のようにすると理解しやすいかもしれない。白色のことを「黒」と呼び、黒色のことを「白」と呼んで、旗揚げゲーム(「白上げて、白下げないで黒上げて」等々)をやってみるといい。あるいは、右手を「左」と呼んで左手を「右」と呼んでやるとか。かなり混乱するだろう。つまり相対音感の持ち主とは、それまで音についていた名前を組み換えることのできる人たちである。もちろん任意にできるわけではないけれども。絶対音感の持ち主からすると、音それぞれには名前が固定的に付いていて、容易に変えたりずらしたりすることはできないのである。

この現象を何と呼ぶかは、ある哲学者たちにはおなじみかもしれない。つまり、絶対音感とは「意味盲」なのではないか。私にはどうもそのように思える。相対音感とは、音名に関するアスペクト変換を可能にする、一つの才能なのだ。