J.Weiner, "Frege Explained"読書ノート (2)

フレーゲを読む人ならばおそらく誰もが引っかかるであろう、「文は真理値の名前である」というテーゼについて。いまひとつまだ飲み込めてないので、自分の理解のための整理。

まず最初に、概念は関数である。例えば概念「は1の平方根の一つである」は対象をとって、真理値を返す関数である(p.79)。さらに概念は入力としての対象に対する値を決定することによって定義される。いま、概念表現"E"を2で割り切れる数について成り立つ概念を表現するものとして定義しようとすると、「E(x) = xは2で割り切れる」となるだろう。そしてこのxを補完すると、例えば「E(4) = 4は2で割り切れる」となる。ここで同一性記号の両側に文が現れる。これは日常的に考えれば確かに奇妙であるが、それが禁止されるとこのような定義はできなくなってしまう(p.88)。

さてこうして文は同一性記号の両側に現れた。では同一性記号の両側に現れるものは一般的に何なのか。『概念記法』においてフレーゲは、同一性記号は概念内容の同一性を表現すると考えていた。つまり同一性記号の両側に現れるものは概念内容を表しているとされていた。しかし概念内容とは推論における振る舞いであって、例えば「1=地球の衛星の数」であるが、この二つのタームの推論上の振舞はまったく異なる。すなわち、同一性は概念内容の同一性であるとすることは、あまりに狭い基準だったのである。そこで「関数と概念」他においてフレーゲは同一性に関する考えを改める。それにより、同一性記号は対象の同一性を表現するということになった(pp.77ff.)。したがって、同一性記号の両側に現れるものは対象を表現するもの、すなわち名前である。フレーゲがこのように同一性に関する見解を変えたことによって、その両辺に現れるものは対象の名前でなければならない、ということになったのである(p.88)。以上により、文は何らかの名前である。

では文はいったい何の名前なのか。文ではなく、日常的に名前と呼ばれるようなものを考えてみると、その名前の対象が何なのかが問題になるのは、その名前の登場する文の真偽が問われる場合である。逆に言うと、文の部分表現の対象が何であるかが文そのものの真理値の決定に寄与するのであるから(意味の文脈原理)、文は真理値の名前であると考えることができる。文は真理値という対象を意味として持つのである(pp.94f.)。*1

ともかくもこうして文は真理値の名前であるということになるわけだが、これはやはり二つの点で奇妙な主張である。すなわち、(1)我々の文の日常的な使い方は、名前のそれとは大きく異なる、(2)我々の「対象」という語の日常的な使い方からすると、真理値を対象をみなすのは奇妙である。これに対して次のように答えることができる。まず(1)、フレーゲが論じようとしているのは(特に論理学・数学の)推論において文がどのように機能するか、使われるかということであって、日常的な文脈における文の使われ方についての我々の理解に適合させようとはしていない。さらに(2)、フレーゲが考えているのは論理学的な意味における対象であり、この論理学的対象の考えは我々の日常的なそれとは限られた関連しか持っていないのである(pp.95f.)。

*1:この辺りがどうももやもやして分からない。