H.ベルクソン、『創造的進化』、岩波書店、1979.

科学の限界を画しようとする試み、あるいはそもそも科学的結果のなかで哲学しようとする試みは評価が難しい。それはその後の科学の進展によってあっけなく反駁される可能性がいつも付きまとう*1。そのときまだそのような本が問いを提示しているとすれば、なぜにしてその著者はそのような見解へと導かれたのか、という問いがその一つだろう。この本もまたそのような運命にあったと言ってよいだろう。

この本をそのような観点から読むとき、まず気づく大きな点は、ベルクソンには確率に関する考察が無い、あるいはあったとしてもある事象が確率的であるとはその事象が単に偶然に生起することであると考えられていることである。ベルクソンには機械論的な(あるいは目的論な)決定論と、予見できない創造の二つしか存在していないようだ。進化は基本的に確率的事象であると考える現在の進化論からすれば、ベルクソンの進化論批判は重要な点をまったく扱っていない*2。確率に関する考察が無いことはなにより、ベルクソン自身のl'elan vitalの存在論証にかかわる。なぜなら、この論証の主要部分は、異なる進化の系列において、極めて似通った機構をもつ器官が発生するということは機械論的には説明不可能であるとするところにあると思われるからである。「物理力や化学力の単純ないたずらがこんな霊妙なものを作りうるなどとはなかなか信じにくい」(p.296)。しかし確率的であることは「単純ないたずら」では決してない*3

しかし確率に関する考察の欠如は、ベルクソンが見落としたというよりは、時代的制約によるものが大きい(原著は1907年)。その時代、確率に関する考察はまだ初期の段階であるし、確率は全面的に科学において用いられ始めた頃である。確率を用いる進化論や、統計力学量子力学などはまだ黎明期かまったく存在していない。しかし、おそらく時代的制約以上のものがあるだろう。それはベルクソンの物質概念に見られる。ここで提示される物質概念は、おそらく「意識」や生命に対比する目的によって、あまりに狭いものである。ベルクソンの捉える物質は不動であり、外力が無ければば変化せず。創造もない。知性による科学が扱う物質をそのような狭い概念における物質に限定した上で、その不十分性を説こうとするのは不当ではないか。時代錯誤として語れば、そのような物質概念は現在ではもはや科学の扱うようなものではない。量子力学以降に提示される物質概念はそのような不動なものではない*4ベルクソンが批判したい知性の営みとして、幾何が象徴的に挙げられるが、物質の配置としての幾何学という見方はおそらくこの本の書かれた時代でさえ、幾何学に対する偏狭な見方であろう。

とはいえ、このような狭い物質概念は途中で破棄される。『物質と記憶』でそうであったように、物質概念はやがて持続という概念によって、生命や意識の観点から統一的に語られるようになる。そのようにして初めて物質概念はその狭い捉え方から解放される*5。ともあれ、最初に提示され、それに基づいて知性の限界が指摘される物質概念はあまりに狭すぎるのではないか。

このような物質の捉え方は、現代でも日常物理学の中にある。したがって、今なお科学に対してそのような捉えかたをするとすれば、それは日常物理学と物理学の混同であると言えるかもしれない。もちろん、ベルクソンに対してそのような謗りが可能であるかは分からない。しかし、ベルクソンには日常物理学と物理学を同じとみる傾向がある。科学は日常の延長である*6ベルクソンにとって科学は、物質を支配するための方法でしかない。科学を支配するのは有用性であり、真理は科学のために取っておかれていない。

そしてここでおそらくもっとも根本的な思考の動向に出会う。科学に真理の主張が認められないのは、もちろんのことそれは哲学に取っておかれているからである。ここにあるのは、哲学は科学から(その扱う対象において、あるいは方法論に)独立したものであり、かつ、哲学は科学の覆い隠す「真理」を発見するのであるという、おそらくは19世紀後半に生まれたローカルな哲学観である*7。私には、科学とまったく峻別される哲学、というもののために科学がなしうること(知性がなしうること)が不当に狭く見積もられているように見える。おそらくベルクソンの時代でもその捉え方は狭いだろうし、現在の発展を見れば言うまでもない。哲学は独自の真理を捉え*8、科学とはまったく対立するものである*9ベルクソンを終始導いているのは、そのような哲学観である。

しかし形而上学がひたすら物理にばかり歩調をあわせながらおなじ方向をもっと遠くまで行こうと夢想しているのは、自分の役割をさとっているのであろうか。形而上学本来のつとめはその反対で物理のくだる坂道をひき返すことに、物質をその諸源泉にもどすことに、そしていうならば心理を逆向きにしたような宇宙論を一歩一歩と築きあげてゆくところにあるのではなかろうか。(p.249)

少なくとも、私はこれに反対する。形而上学は、あるいは哲学は科学とは逆向きに起こるのではない。科学の進む方向を引返すところにあるのではない*10

以上すべてのことは、ベルクソン側からすれば単純な点によって反論できるかもしれない。すなわち、科学はその方法による限界につきあたり、持続(物質は緩んだ持続であるということ)をいくばくか取り込んだのだと。現代の科学の展開は、まさにベルクソンがこの点で正しいことを示しているのだと。そのような主張がどこまで妥当なものであるかどうかは、私には分からない*11

それにしても、経験の一回性や知性の映画的性質といったところで自分がベルクソンの影響を大きく受けていることを再確認。たぶんドゥルーズ由来だろう。

*1:かといって、そのような試みは常にその時点の科学の結果に相対的でしかないのだろうか?

*2:かといえ、ベルクソンの側からはいかに確率を取り込んだところで、確率を扱うということは標本空間という形ですべての選択肢があらかじめ与えられているとみなすことであり、機械論の一種に変わりはないと応答できるかもしれない。しかし確率に対して様々な解釈があることを考えれば、そう単純に機械論の一種であると言えるかどうかは断定できないし、なによりベルクソンが機械論および目的論が進化の事実を説明できないとする批判は論証不足であることになるだろう。

*3:ところでベルクソンが単なる偶然とは「考えにくい」(ここは常に認識論的な限界として語られていることに注意)として説明原理としてのl'elan vitalを論証する過程はそれ自体として問題が無いと言えるだろうか。非構成的な議論であることはともかくとして、この過程はベルクソンが批判している「知性」の手続き(「ほかでもない、知性はつねに構成しなおそうとししかも与えられたもので構成しなおそうとするからこそ、歴史の各瞬間における新奇なものをとり洩らすのである。」(p.198))に似通ってくると言えるだろうか。あとはl'elan vitalによる説明が単なる目的論に陥らないために創造の予見不可能性を言うわけだが、ひねくれた見方をすればそれは単なる説明放棄と捉えられるのではないだろうか。

*4:「この書物のはじめから匂わしておいたように、生命の役目は物質に不確定性をはめこむことにある。」(p.158)しかし物質はそもそも不確定なものである。「知性は不連続しか明晰に表象しない。」(p.188)これにも疑義を挟みたい。

*5:「物理学の進歩につれて物体の個体性はもちろんのこと、科学の想像によって物体を分解してまずえられた粒子の個体性までもぬぐい消される。物体や粒子は普遍的な相互作用のなかに溶けこむ傾向にある。」(p.226)「すでに物理学の領域においてさえ、自分の学問を深くきわめた学者たちはつぎのような信念にかたむいている。ひとは全体を論じるように部分を論じることはできないし、おなじ原理が進歩の起点と終点とにあてはまるわけではないし、原子を構成している粒子にかかわるばあいにはたとえば創造や無化もゆるされなくはないのだ。」(p.429)

*6:「物質の科学は日常の認識なみに手をすすめる。それは日常の認識を完成し的確さと力域を増すが、仕事の方向はおなじであり動かす仕掛もかわらない。」(p.392)

*7:そしてこれをそのままひっくり返したのがいわゆる「自然主義」である。おそらく自然主義はこのローカルな哲学観よりもずっとローカルなものだろう。そしてまた議論の常として、このローカルな哲学観の否定が自然主義になるわけではない。だがそうだとしたらそれは何なのか?

*8:「哲学には思弁する、すなわち見るという哲学ならではの仕事がある。」(p.236)「そのように消えさりがちなほんの間遠に対象を照らしだす直観を、哲学はそのつど奪いとらなければならない。」(p.316)

*9:「私たちのしたがう仮説によると、科学と形而上学は補いあいながら相対立するふた通りの認識のしかたであって、科学は瞬間すなわち持続せぬものしか引きとめないのに形而上学は持続そのものを目ざすはずである。」(p.402)

*10:とはいえ、哲学は科学と(自然主義が言うように)同じ方向を歩むのだろうか?そうでもないとしたら、それは何だろうか?

*11:最後に別の論点を一つ。第四章では、存在はその述定によって対象に何らかの性質を付与するような性質では無いとされながら、依然として対象の性質であると考えることによる混乱が生じていると見える。ただしここには否定とは単なる判断ではなく、別の判断の誤謬を導く判断(むしろ別の命題に対する判断というべき)だと考える、構成主義的な否定の観念(¬A≡A→⊥)があるのが興味深い(間違いなくカント由来だが)。存在が対象の性質になってしまうのは、対象と概念の区別(あるいはそれに類似した区別)が無いからだが、これは概念に対するベルクソンの冷淡な態度(p.372)と関係があるだろう。