飯田隆編、『論理の哲学』、講談社、2005.

読み終わるのがもったいないと思った本も久しぶり。大抵は大筋が分かったら後は消化試合、という読書になるのだが、久しぶりにそうはならなかった。とても楽しかった。お気に入りは直観主義に対する誤解を逐一指摘して解消する第五章と、プログラムの基礎理論との関連が盛りこまれた第七章。日頃話したり酒飲んだりしている人達が書いたものなので、自分にも感慨深いものがある。自分も頑張らないと。

気になったところを一点だけ。曖昧な述語の寛容性について、「ポイントは、十分に小さな差においては、われわれの識別能力の限界から砂山をなすか否かを決定できないということである。」(p.64)と書かれている。しかし少なくとも私が知っているところでは、ある述語が寛容であるのは識別能力の限界にあるのではなく、その述語の意味そのものにあるはずだ。例えば、われわれよりもずっとよい識別能力(あるいはそのような道具)を持った人が、曖昧な述語の境界があるところに存在すると言ったとき、われわれはむしろその人は同じ概念を使っているとは認めないのではないだろうか?あるいは、「5cm」という述語は識別能力のいかんによって曖昧になってしまうのだろうか。普通(というのは、epistemicistの場合は怪しいので*1)、識別能力の限界は述語の曖昧さとは関係がないはず。

*1:例えばいま読んでいる論文にはこんなことが書いてある。"some epitemicists explain our ignorance in borderline cases in terms of the insensitivity of our verdicts to slight changes in the extensions of the concepts we employ." (S. Rosenkranz, `Knowledge in borderline cases', Analysis 65-1, 2005, p. 50)しかし識別能力がどのような状態であれ、述語の曖昧さは変化しないということはそもそも識別能力が関係ないということなのではないかと。