J.Weiner, "Frege Explained"読書ノート(5)

フレーゲの真理論。読書ノートはこれにておしまい。

初期フレーゲであれ後期フレーゲであれ、フレーゲによれば、論理学の主題が文や表現といった言語的存在者であると考えるのは誤りである。論理学の主題は正しい推論である。しかしこの「正しい推論」とは、実際に人間が行っている推論活動、とりわけ心理学的なものを思い起こさせるだろう。しかしそのような心理学的推論は論理学の主題ではない*1

そこでフレーゲは、論文「思想」を、論理学の主題は「真である」という述語によって特徴づけられると語ることによって始めている。そして、真理の法則を発見することが論理学の仕事であるとされる(p.149)。一方、「真である」という述語は何に適用されるものであるかというと、それは思想に対してである。したがってまず、論理学の主題とは思想であると考えられるだろう(p.153)。

ところが論理学の主題が思想であると考えることには問題がある。(1)論理学の適用される範囲は思想に限らず、極めて一般的なものである。論理学の主題が思想であるというのは、それによって論理学の適用範囲が限定されたわけではない。例えば幾何学は(フレーゲの考えでは)空間的事物に適用され、数には適用されない。しかし論理学は一般的に適用可能なものであって、その主題が思想であると言うことは他の科学の主題について語ることとは性格が違う(p.153)。
(2)フレーゲ幾何学の公理の独立性を証明する独自のやり方として、名前の置換によって思想から思想の独立性を示すやり方を提示したが、このとき、そのような思想どうしの関係を扱うことは論理学の領野ではないとされている*2。だからフレーゲによると、論理学は思想を主題として持つ科学ではないのである(p.153f)。

この問題をどう考えるか。まずフレーゲは真理が思想の性質であるということにはためらいを持っている。なぜなら、真理は思想に何の性質も帰属しないから(真理の余剰説)。むしろ一つの解釈によれば、真理の帰属は思想を表現する別の仕方、特に本来は言語で表現することのできないものーー主張ーーを表現しようとする試みである。しかしそれはもちろん失敗する試みである。いくら「は真である」を付加しても、劇中のセリフであれば主張力を持たない。未公刊のノートにおいて、フレーゲは真理述語を主張力を言葉に与えようとする失敗する試みであるとしている*3。そしてまた、論理学が本当にかかわっているのは「真理」という言葉に含まれるものではなく主張力であるとしているのである。(p.154f)

*1:少なくともフレーゲ当時においては。現在では一部から、あくまで一部からこの捉えかたが疑問視されているのも事実である。

*2:おそらくメタ論理の問題であろう。

*3:`In unpublished notes, Frege characterizes the truth predicate as a failed attempt to put assertoric force into words.' (p.155)ここで`unpublished notes'と言われているのが何かは指示がまったくないので不明。これはフレーゲの生前は未刊行であった原稿のことなのか、いまだに現在も未刊行な何らかの草稿のことなのか。