P.M.チャーチランド、『認知哲学』、産業図書、1997.

知覚を典型とする人間の初等認知能力に関する科学的成果を踏まえて、人間の認知構造の一般論を探り、それを基にして哲学的な問題と従来呼ばれているものに示唆を与えようとする本書は、きっかり50年後の『知覚の現象学』である(原書は1995年刊)。
PDPモデルを中心に展開される知覚に関する脳科学の話はデーターとしてとても興味深い。しかしそこから推論を初めとするより高次機能を語ろうとするところは、現状ではあまりにギャップがありすぎて説得力を感じなかった。「プロトタイプ」という概念が多用されるが、科学的データと切り離された第10章で道徳などを語る際には「典型例」という素朴な概念とほとんど変わらない。いくつかのところで失笑してしまった。もっと基本的なところでしっかり議論すればいいのにと感じる。
他に三点。ネットワークが回帰的回路を備えることが「過去を扱うこと」であるとされるが、よく分からない。その回帰回路が接続されるニューロンにとっては、単に情報が入ってくるだけであって、それが「過去」であるためにはその情報の経路に関する情報が必要。単一のニューロンがそんな機能を備えるわけではない。「過去」とはどの観点から語られているのだろう。意識の話。意識と外延的に同等なものがニューラルネットワークとして見付かったとして、それがそんなに大きな意味を持つのだろうか。心と脳では概念的役割がまったく異なることは明白。一つつぶやいておくと、心という概念には完全に因果的に説明することは不可能であるということがその本質に属するのではないだろうか。「少なくともデカルト以降に一般的となった伝統的解答によると、心が自分自身についてもっている知識は、その一般的本性に関してもまた現在の状態に関しても、直接的かつ不可謬である。」(p.426)こんな強いこと要求している哲学者なんてほとんどいないんじゃないかと。デカルトが主張した自己知の範囲はかなり狭い。ごりごりの内在主義者に見えるフッサールでさえ、こんなに強いことは要求していない。そりゃこんなこと成立するわけがないだろう。それは「神経工学」の発展を待つまでもない気がする。

本書に書かれている脳科学の話は、極めて鮮やかに描かれているし、どれも興味深いもの。いろいろなことを考えさせてくれる。哲学者の常として、それを一般化してもっといろいろな話に適用したくなるものだ。だが、それはいつも思ったより単純にはいかないだろう。