科学が行き詰まったとき

ええとですね。あまりちゃんと考えている余裕もないのでざっと書きます。

科学が行き詰まったところに哲学が出てくるなら、そのときその科学は「科学として」行き詰まったのではなく、まさに「哲学として」行き詰まったのではないかと思うのです*1。もちろん、科学が行き詰まったときに科学者が哲学を必要とすることはたまに(いや、稀に)あります。それは科学が哲学を必要としたということではない。科学が科学として行き詰まったところに現れるのは、科学でしかない。

例えば、いまちょうど扱っている連鎖式のパラドクスの話をすれば、このパラドクスによって行き詰まるのは哲学であって、曖昧述語を用いた日常実践ではない。常識は「常識として」全然行き詰まってはいない(少なくとも日常的には)*2。こういう場合に哲学がやっていることは、日常推論のなかにある原理をそれだけで取り出してきて整合的かどうかを問う営みに見える。そうだったとして、それを単なる「思考のゲーム」と見るかどうかは人それぞれでしょう(最近そういう人が増えてきてるような気がしますけど)。個人的には、そのような営みが我々が日常的に何をやっているのかに対して、再び何らかの光を当てるだろう、はずだ、だったらいいな、でなきゃ困る、と思っています。

そもそも哲学/科学/常識という区分がどうも収まりの悪い感じがしますけど。ってこれは逃げか。

*1:そして科学が「哲学として」行き詰まるのは、そりゃ当り前だ。

*2:って言い切れるかどうか最近は疑問だったりもしますけど。例えば、脳死問題についての論争においてまさに我々は連鎖式のパラドクスに巻き込まれたのであって、それはまさにagreement to disagreeによって解決されたと考えることができそう。