もう一つの「なぜ」

不慮の死、突然の人の死などの時の発せられると思われる、ある問いの形式がある。「なぜ死んでしまったの」というものだ。この問いに対して、例えば医者や生物学者などがやってきて、その人の死に至る因果系列の科学的説明を行うことは、答えにならない。またさらに、科学的説明でなくても、誰がこういう信念と欲求を持ち、誰がこういう意図で行為して、その結果によってそうなったのだ、という行為系列の説明も答えにならない。同じ文言の問いに対して、それらの答えが的を射ている場合も、もちろんある。だが、ここでは求められている説明はまったく別種のものなのである。

なのである、というより、どうやら別種のものらしいのである。だとすると、この問いはいったいいかなる答えを求めているのか。そしてなぜ、科学的説明はここでは無効なのか。例えば、このような問いに対して、死後の生や神などを用いる、典型的に非科学的とされてしまうような説明が有効であったりする。これは科学的なものの何らかの限界を示しているものなのか。あるいはまた、このような問いを発する人は、そもそも答えなど無いところに問いを発しているのか。したがって、それはそもそも問いですからないのか。

このような問いが単なる独白であって、問いではないことはありうる。しかし確かに、ここでは何かが求められている。それを「その出来事の意味」とでも言いたくなる欲求がある。これは翻って、「存在の無意味性」とか「存在することの暴力」などの考えを導くかもしれない。だがここにそもそも「意味」を問いうる次元があるのだろうか。

このような問いは、いつか発せられることを止める。そのとき、その問いは解決されたのだろうか。それとも、単にそれは隠蔽されただけだとでも言いたいだろうか。