高尾利数、『イエスとは誰か』、日本放送出版協会、1996.

新約聖書福音書のうち、マルコをマタイとルカから切り離し、その元となったと考えられる原マルコを探りながら、人間としてのイエスの姿を提示する。ヨハネがほとんど出てこないのが気になる。教会での講話らしく、ところどころで現代文明批判が出てくるが、どうかなぁという印象。確かに福音書の批判的読解から読み取られる「元々の」イエスの姿は興味深い。またマタイがいかにユダヤ教の共同体に向けて、また教条的に書かれているかも印象深い。しかし一方で、マタイがそのように無理をしてイエスを神の子と提示したことによるキリスト教の理論的歪みは、その後三位一体論を生み出す。その過程のダイナミズムになぜか共感する人間としては、本書のやや苛烈な部分にはついていけないのだった。

まっクリスマスですしね。

毎年「クリスマス」の季節がめぐってくると、問題の多いこの祭りについて、どれほど問題提起がなされてきても、ほとんどの教会においては、本質的な吟味はなされてきていない。一二月二五日にイエスが生まれたという伝承はまったく根拠のないものであり、その日付がずっと後代に主張されたのは、第一世紀にローマ帝国内で盛んであったミトラス教の「太陽神」の誕生を祝う非常に人気の高かった祭りを、キリスト教会が何とか切り崩そうと横取りしたことに由来するのである。[...]それにしても多くの紆余曲折があり、最終的にこの日付が定められたのは、八世紀の終わりである。しかもそれは、イエスの誕生を神話化・神秘化・教義化していった結果作り出された幻想であり、そのうえ近代においてはますます情緒化と商業化の度合いが深められて、アメリカを中心とする商業主義に便乗して宣伝され広げられてきているものである。(p.63)