「ツェルメロがフッサールに口頭で伝えたことのメモ」(1)

また何か訳してみます。

出典は

  • E. Husserl, `Notiz einer mündlichen Mitteilung Zermelos an Husserl', in B. Rang (ed.), Husserliana Band XXII. Aufsätze und Rezensionen (1890-1910), Martinus Nijhoff, 1979, p. 399.

いわゆるラッセル・パラドクスについて。ラッセルがそれをフレーゲに書簡で知らせたのは1902年6月16日付けだが、ゲッティンゲンの「ヒルベルト・サークル」ではそれ以前から知られていた、という話がある。フレーゲ宛のヒルベルト書簡と、ツェルメロの1908年論文にそのことが書いてある。このことには長らく確たる証拠が無かったのだが、フッサールの遺稿を整理している中で証拠が見付かった。それがこのノート。日付は1902年4月16日付け。なんでもかんでもメモしておこうとするフッサールのような人がいると、歴史的には重宝しますね。

さてしかしではツェルメロがラッセル・パラドクスを発見したのが1902年なのかと言えば、どうやらそうではない。おそらく、それよりさらに2、3年前だと思われる。1902年より前にパラドクスは見出されていたし、ツェルメロやヒルベルトは知っていた。フッサールが書いたシュレーダーの『論理の代数学』の書評を読んで、ツェルメロは思い出したようにフッサールに伝えたようだ。

以上の点については

  • B. Rang & W. Thomas, `Zermelo's Discovery of the "Russell Paradox"', Historia Mathematica, 8, 1981, 15-22.

を参照のこと。このノートの英訳もこの論文に載っている。他にも英訳があります。

面白いことは、ゲッティンゲンではラッセル・パラドクスは前から知られていたのに、特に騒ぎにもならなかったということ。これはおそらく「ツェルメロ・パラドクス」は主に集合論固有のものだと思われていたからかもしれない。ラッセルが集合論ではなく、フレーゲの体系にそれを見出したことにより、その問題の一般性が知られた、ということかもしれない(とはいえ、ラッセルがラッセル・パラドクスを見出したのは、カントールの定理を研究する中であった)。いやそれよりも、実はラッセル・パラドクスは(少なくとも集合論にとって)思われているより重要な事柄ではないということを意味しているかもしれない。

とても短いメモ。二回で終わるだろう。