竹内薫、『物質をめぐる冒険 万有引力からホーキンスまで』、日本放送出版協会、2005.

この人の一貫して追っている、物理学の発展の中で物質という概念はどう変容してきたのか、という問いはとても重要なものだと感じるし、本が出るたび期待するところは大きいのだが、今回はがっかりしてしまった。古典物理から量子物理を中心とする現代物理の物質概念への発展を「モノからコトへ」という軸で描こうとするのだが、成功しているようには思えない。この概念対立はむしろ古典物理の物質/場の対立に当てはまっているように思われ、量子物理の物質概念についてはもっと異なる概念が必要なように思われた。現代物理の中に見られる古典的には奇妙な現象の解説は普通の科学読みものとして楽しいのだが、どうもモノ/コトという概念枠には違和感を感じてならない。
このモノ/コトという概念対立が、実在論/実証論(実証主義)、具体論/抽象論という概念対立とひとしなみにされてしまうところ(p.160)とかは実にがっかりする。元々哲学の訓練を受けた人であるし、おそらく物理学の哲学も読んでいるだろうに、この概念のナイーヴな扱いはちょっと。著者が何度か大森荘蔵を示唆するのとは違って、モノ/コトという概念対立は廣松渉を意識しているようだ。物理学での物質概念の発展が物象化に関連付けられ、「哀しい人間の性」として人生論になってしまうあたり(p.48f.)は形容しがたい。*1こういうこと書くと、現在では科学書としての信頼性が失われかねないので無い方がよかった。
科学的成果ではないところとか、科学的成果についての思想的説明についてがっかりする時があるが、科学読みものとしてはしっかりしているだろう。物理主義とか自然主義とか言ってる人たちにこういうことをもう少し考えてほしいのだがね。

真空で観測者が加速運動すると、そこには量子があるように見える。もちろん、加速運動していない別の観測者は、その同じ場所を見ていても何も見えない。[...]
つまり、量子は、観測者の運動状態によって見えたり見えなかったりするような不可解なモノなのであり、一般常識における「実在」の考え方はまったく通用しないのである。
量子があるかないか、というようなことでさえ、現代物理学では「揺らいでいる」。それが理論と実験の示すところなのだ。(p.153)*2

*1:ちなみにそこで触れられている、メイド喫茶の話は面白い。著者はこれはメイドと主人という階級を固定化させる物象化の営みの一つだと言ってるが、逆だろう。重要なのは、その固定化した階級を模倣すること、物象化を模倣することなのだ。その場でしか発生しない、基盤をもたない実に表面的な関係性だけが重要なのである。深層なんてどうでもいい。表面的なもの、薄っぺらいもの、ばんざい。表層で起こる「コト」だけが<本質>なのである。これを物象化と取り違えるのは、まさに著者自身に物象化へのあくなき意図が存在するからである。こうしてここでも、二次元主義は誤解され続けている。そもそも二次元主義者が自己誤解することが多いのだから無理もないが(純粋な二次元主義者など存在しないのである)。そして二次元主義の限界は、まさにこのような概念枠に、つまり表層と深層という概念枠に捕われることだ。

*2:この引用もどことなくナイーヴな印象を受ける。一般向け解説書にそこまで概念の厳密な取り扱いを求める方が無理というものか。