フッサールの「計算の哲学」

前にも書いたとおり、最近は(体調がなかなか回復しないので停滞してるが)

  • E. Husserl, `Versuche zur Philosophie des Kalküs', in Husserliana, Bd. 21

を読んでる。例えばこういうことが書いてある。これは歴史的指向のある数学の哲学の人にも、フッサール専門の人にも、現象学について入門書程度の知識を持つ人にも興味深い・・・かもしれない。

計算を特徴づけるものは何か。それは、計算とは、概念や関係の特殊性にそのつど訴えることなく、探求領域のある与えられた命題から同値な命題を演繹するやり方(Verfahren)である、ということ以外の何ものでもない。だが、それはどうやって可能になるのか。概念と関係によってでないとしたら、いったいどうやってできるというのか。答えは次のようになる。概念は特定の名辞(Termini)を介して、関係はそれに対応する結合記号を介して考えられる。算術において計算するとき、我々は単に記号と、記号間の結合規則にだけ気を配る。さてしかし、あなた方はこう反論するだろう。そうはいっても、記号は特定の事柄に対する記号であり、規則は物事−−我々の場合では算術の概念−−を正しい仕方で扱い、それに関して正しい命題を定立するための規則である、と。だが次のことをよく考えてみよ!算術においては、それぞれの数が【それぞれ】一つの記号で、それぞれの操作が対応する結合記号±で、等しいことと異なっていることが新しい記号=、>、<で、等々と簡潔で分かりやすい仕方で表現されている。したがって、あらゆる命題に対して、紙の上のある感性的表現(ein gewisser sinnlicher Ausdruck auf dem Papier)が一意的に対応しているのである。命題の使用、命題の中に含まれる規則の使用にはまた、記号による操作の規則が対応しているのである。(p. 60f.)

でもこの草稿の面白いところはさらにこの「先」へ行っているところ。