フッサール初期数学論についてのメモ書き (1)

もう一ヶ月以上前だが

  • M. Hartimo, `Mathematical Roots of Phenomenology: Husserl and the Concept of Number', Journal of History and Philosophy of Logic, vol. 27 no. 4, 2006, 319--337

を読んだ。

とてもクリアに書かれているし、読解はとても正統的だと思う。だがそれゆえにつまらない。こういう正統的な読解だと『算術の哲学』のフッサールは何をしていることになるのだろう。Hartimoが言うように、数え上げるという行為を分析して、暗黙的に理解されていた数概念を取り出したのか?
そんな日常的な素朴なケースを分析してどうするのだろう。そんな日常的な場合は、数学にとってさほど重要なことではない。*1では、このような分析によって取り出される数概念に基づいて、およそすべてが理解されるというのだろうか?
そういう人に対しては、次の点を強調したい。すなわち、ある概念を理解するに至る我々の過程と、その概念の論理的意味は一致しないのである。前者はある概念を理解する手引きとなるpictureであって、それは心理学的なものに過ぎない。二人の人がある概念について、それを理解するに至る道のりが異なっていたとしても、異なる概念を理解していることにはならない。pictureは概念の意味に属すものではない。確かに、「何があるのか」よりも「それがあると言うことによって我々は何をしているのか」に視点を移したのはフッサールの功績である。*2しかし、我々がしていることには、言明の意味に参与しないものも多々あるのである。*3

したがって『算術の哲学』における分析は、数概念の論理分析になりはしない。それが行っているのは結局、数を数えるという行為に対する、素朴心理学にすぎない。そして、そんな分析は数学には一切関係ない。*4このような分析が数学に(いかなる意味であれ)「基礎」をもたらすというのは、馬鹿げた話である。*5Hartimoは、フレーゲが算術を論理に求めたのに反して、フッサールは算術を経験に求めたとフッサールの独自性を出そうとするが、確かに彼らのやっていることはまったく異なるから当たり前である。*6前者は数学の分析であるが、後者はせいぜいのところ数学者の分析である。

*1:おまけに、そんな初歩的なケースの分析に依存したばかりに、自然数についてさえも分析は数の本来的と記号的な提示の二つに分裂し、統一した分析を提供できなかったわけだ。

*2:それが存在論ではなく認識論を重視することなのかどうかはともかくとして。

*3:もちろん、言明の意味には「その語を使用する話し手が知っているもの」としてのフレーゲ的Sinnが属する。しかしそれはpictureではない。

*4:もちろん、このような分析に価値が無いと言うわけではない。しかしそんなもの何が面白いのだろう。

*5:ところで、哲学的分析が数学に基礎をもたらすとフッサールが本当に考えたのだろうか。彼は、少なくとも第一義的には数学において働いている概念の哲学的解明をしようとしたのではないのか。数学が哲学を必要とするという考えは、それこそ「他の類への侵入」ではないのか。数学についてあまり知らない人ならともかく、元数学者フッサールがそんな馬鹿な考えをしていたのか。数学は哲学を必要とはしない。ただし、数学者が(その数学的活動に際しても)哲学を必要とすることはある。

*6:しかもこの経験とはせいぜい、「中規模の物理的対象medium-sized physical objects」の知覚経験という、非常に限定された経験の領域でしかないようである。どうして抽象的な思考機能が、具体的な思考機能に基づかなければならないと我々は考えがちなのだろうか?