フッサール初期数学論についてのメモ書き (2)

以上の点を「構成construction」*1ということにより乗り越えようとするならば、そのときダメットの以下の批判に真っ向から応える必要がある。*2

If Husserl had proposed an account of the process of forming the concept of number as something that could stand on its own, before a subsequent account was given of the concept itself, the mistake would have been bad enough: in fact, he substitutes his account of the process of concept-formation for a delineation of the concept. It is above all in making this substitution that psychologism is objectionable;[...] But what differentiated such an acount[Frege's account] from one of the type used by Husserl was, as we shall see, that it did not serve in place of a true definition, but as a guide to arriving at one. (M. Dummett, Frege: Philosophy of Mathematics, Harvard, 1991, pp. 20f.)

すなわち、概念の起源は概念の内容の解明ではない。概念の発生論的起源は心理学的なもの以上にはならない。概念のpictureは概念の構成に関係しない。例えば確かに我々はpictureを使って判断をしばしば行う。ある概念について考えるとき、その典型例を思い浮かべて判断を行うことはよくある。しかし、この推論の論理的内容はその典型例に依存したものであってはならない。論理的内容そのものは別のところに由来する。概念の起源の指摘は、せいぜいいったい何の概念について話されているのかに読者を導く、道しるべとして機能するのであり、そのような概念がいったい何であるかはその後始まる話なのである。

しかし実は少なくとも『算術の哲学』の主要テーゼからは、以上のことは問題ない。なぜなら彼は、そのとき数概念は単純概念であって定義不可能なものであり、原初概念とされるべきだと考えていたから。ゆえにそのような概念に対しては定義ではなく、いかなる概念について我々が話しているのかについての示唆のみが可能である、と考えることができるだろうから。*3


そして、以上の理由であるからこそ、フッサールは『算術の哲学』における数の分析を基本的に放棄したのである。かくして数についての説明、あるいは数についての理論としての算術とは何か、についてもフッサールは根本的に考えを変えている。その萌芽はすでに『算術の哲学』第一巻第二部に見られるとおりである。それは第一部の以上のような考えから解放されたとき、ようやく独自なものとして展開される。

*1:これはフッサール的に言うところのKonstituitionである。

*2:この批判はフッサールの数学論のみならず、おそらく現象学全体に課せられた問いでもあるだろう。

*3:それで問題が終わるわけではない。ではなぜ、数概念はprimitiveなものとされなければならないのか?それ以上説明不可能だから、という理由は単に試みていない言い訳に過ぎない。ここで、自然数は神の創造物であって我々の与り知るところではないというクロネッカーの見解の影響を見るのは正しいかもしれない。逆にこう問うべきだろう。なぜ、19世紀後半に自然数を説明することが必要だと思われるようになったのか。論争もあり問題となっていた実数概念ならともかく、それまで自然数は比較的自明で安全な概念と考えられたのではないか。だからこそ算術化の運動が妥当性を持った。ワイヤーシュトラウス、(前期)カントールクロネッカー自然数が妥当な基盤であると思っていたのではないか。それに対してデテキントやフレーゲは、なぜ自然数に対して定義が必要だと考えたのか?