フッサールの数学の哲学についてのメモ書き (7)

書けるときに一気に書かないと、書く気が無くなってしまうという典型的な事例になってしまった。あとは殴り書き。

以前論文に書いたが、フッサールにとって数学的対象は理念的なものである。それはゲーデルが解釈したように、十全な直観に至らないものではない。理念的なものは常に十全的に与えられる。なぜなら、それは時間的アスペクトを持たないから。不十全性は対象の時間的性格から生じるのであって、数学的対象にそれは無縁であると。
この点はすでにマリオンも指摘したとおりである。ブラウワーとフッサールの数学的対象に対する捉え方の最大の違いは、数学的対象が実際に時間的に生成すると考えるかどうかにある(p.134)。
逆にいえば、数学的対象は無時間的(あるいは全時間的)であるというテーゼを外すことは、フッサールの構成概念(と実在論的な側面との関係)を考える上で重要なことかもしれない。

一方でフレーゲは、思想の領域について同じように強固な実在論を採っている。思想とは永遠で、生成消滅しない、無時間的な存在者であると。ダメットはこのテーゼを、心理学主義批判に対して思想の客観性を過度に主張したための物言いと取る。そしてこのような思想の無時間性を正直に受け取らず、客観性という点だけを保持してもフレーゲの主要テーゼとは何の矛盾もきたさないと。
フッサールは論理の客観性を主張するときに無時間的性格をまじめに受け、自分の時間論のなかに組み込んだゆえ、数学的構成についての考えがゆがんだように思われる。その点を考慮に入れることは、「作用」についての理論を意識という狭い領域から解放することになるだろう。かもしれない。

書く気が無くなったのでおしまい。