三上真司、『もの・言葉・思考 形而上学と論理』、東信堂、2007.

見た目は分析的形而上学の入門書。実体論と束理論、存在しない対象のパラドクス、フレーゲのパズル。しかし分析的形而上学に慣れた人は、読んでいて発想が違うので戸惑うだろう。特に言語の意味から会話者の方へ常に論点が移行するのは、かなり戸惑う。良くも悪くも「現象学的」あるいは(意味の理論ではなく)「認識論的」と名付けられそうな考え方。

いくつかの印象。Blackの不可識別者同一性の議論への評価は賛同できるところがあった。メタレベルですでに対象を確保した上での議論だと。通例、Blackの議論は不可識別者同一性を反駁したと捉えるのが常識とされているが、もしここで提示されているような議論なのだとしたら、その分析的形而上学の常識は驚くべきものだ。しかし、私にはこのBlackの議論は不可識別者同一性の正しさを示しており、de dictoの話ではないように思われた。

古典論理で神の存在証明ができるとされているが(p.84)、これは奇妙。ここで言われるaは、議論領域の対象のメタでの名前ではなくて、個体定項だろう(全称例化で用いられているのだから)。するとここで言えることは、「「神」の意味論的値(指示対象)が存在する」ということであって、その意味論的値が本当に神であるかどうかは、まさに議論領域に神が存在するかどうかに依存する。可能世界意味論の話を導入しているわりには、モデルの話、名前とその対象の話がきちんとなされていないのが気になる。

「私」が他人によって「Xは自分が〜」と言い換えられるのは、まさに「私」の言語的意味に属するのではないのか(p.189)。その推論は、まさに「私」の意味によっている。これを支えているのは共通感覚ではないように思われる。逆に、共通感覚を支えているのは、言語的能力、特に規範的規則に関する能力の方ではないだろうか。