自己知について(3)

(昨日の続き)

主体は中心にいない。意識は中心にいない。欲望はまったく異なるところで運動する。だから、自己知が不十分であり、正当性の根拠として十全ではないのは当然の現象である。自己知が十全であるのは、もともと自己知など求められない状況下においてである。したがって、他人の問いかけに対する応答は−−特に「重い」問いの場合−−、自分の信念や欲求の内容に対する報告ではなく(そのような報告の正当性の根拠となるべき自己知は十全な根拠を提供しない)、可能的にあれでもこれでもありえた、あるいは実際に潜在的にあれでもこれでもある様々な選択肢の中から一つのものを決定することであり、結局、その応答そのものが自分の信念や欲求を決定・構成することになる*1

当初の問いからはずいぶん遠いところへ来た。まとめてみよう。自己知が求められるのはどういう場合であるかというと、まさに自分にしか分からないものが求められる場合である。それは他人の呼びかけに対して自分の信念や欲求を述べるときである。しかしその呼びかけと応答が重要なものであればあるほど、すなわち自己知が役割を果たすことが大きければ大きいほど、自己知はその役割を果たすことはできない。
私が考えていた「ずれ」は、次のようなことだった。すなわち、自己知は確かにたいていの場合、存在するし、直接的で透明であろう。しかしながら私にとっては、それはもっとも機能しなければならない場合に機能しないのである。

そして例えば、確かに私は自己知についての自己知を得るためにこのような努力をしなければならないのであった。

*1:だからかつて俺はこう応答した。すなわち、「好き」という言葉は恋愛感情の表現ではないと。むしろその発話が恋愛感情を構成するのであると。重要なのは恋愛感情を維持することではなく、そのような発話が可能となる場を維持することであると。したがって、俺が君のことを好きかどうかは分からない、俺はそんなことは知らない、と。戯れであれ真正であれ、そのように「言ってみる」ことが重要である、と。もちろん、このような主張は理解されるはずもないのであるが。