Credo for four-dimentionalism

哲学の話ではありません。ネタなので決して本気にしないように。

「四次元主義(four-dimentionalism)。しかしこれは哲学の話ではなく。まして真面目な話ですらなく。話題は二次元主義と三次元主義の対立である。二次元主義、しかしそもそも存在者が二次元的であるというのではない。ここで言う二次元主義者とは二次元の女性を愛する−−あるいはむしろ、二次元の女性を生産する機械たちのことである。この二次元の女性は例えば半角とか虹とか呼ばれることもある。二次元主義者たちは何を志向/嗜好/試行/思考しているのか?「現実」においてはうまくいかない対人関係を、恋愛関係を二次元の上に再・表象しているのか。二次元は三次元の代理なのか。投影なのか。虹は所詮、幻であるのか。いや、二次元主義者にとって、現実とはそのディスプレイの上であり、jpegデーターである。確かに二次元は三次元の代理である−−しかし代補supplementとして。二次元は投影projectionである−−企投projetとして。それが現実であり、目標なのである。しかし彼は思い悩む、彼は二重の現実に住む。理想を求めるのであれ、逃避するのであれ。彼は走っている−−その先が妹であれ、メイドであれ。二次元主義者は退歩、逸脱であるという三次元主義者からの非難に戸惑いつつも。どこかに後ろめたさを感じながらも。

二次元主義者との対比で言えば、三次元主義は実に「健全」である。彼は実際に「人」を求める。しかし彼は何を見ているのか。彼は三次元主義者である、すなわち彼が見ているのは時間断片である。三次元主義者は二次元主義者を批判する。二次元に抜け落ちている「現実」のパラメーター。現実の深みの次元。不確定性の海を。しかし三次元に加わったパラメーターは「現実」とは言え、時間断片である。それは刹那の現在である。当たり前だ−−三次元主義者は応答する。我々が出会うのは、ある一瞬であると。会合は一瞬であると。しかし彼はその瞬間、何を見たのか。身体−−見開かれた眼か。大きな胸か。あるいは何か。性格−−優しさであるか。面白さであるか。それが時間断片ではなく、ある幅を持った時間だとしても。現在は持続しない。持続するのは過去である。出会いは一瞬である。持続する高揚感は一時の慰みにすぎない。あるのは、過去、過去、過去。沈みゆく現在。現在はもうない。未来は未だ来ない。将来、将に来たらんとするものは過去への耽溺であるか、姿を変えた別種の関係であるか、倦怠期であるか、惰性であるか。あるいはそれを思い出と呼ぶにせよ。三次元主義の限界は将に来たものとするものとして、今まさに待ち受けているのである。三次元主義者は未来を歓待しないのである。絶えざる現在の更新/交信の中で。これが行進という名の後進でなくて何だろうか。それでもこれが健全であるのか。

ここで我々は一歩前に戻らなければならない。二次元主義と三次元主義の対立の前に。あるいはその向こうに。四次元主義が声を上げる地平へ。四次元主義者とは、変化を受容する者である。不断の生産に身をゆだねる者である。彼は耽溺しない。逃避しない。常に未来を歓待する者。変化の質は、人それぞれである。ある者は精神の開示。またある者は肉体の支配。ある者は少女からの成長。ある者は秘密の構築、といった具合である。ある意味では、四次元主義者こそもっとも「現実的」である。彼は流動し、変化する現実の中に住むのであるから。あるいは、二次元主義であれ三次元主義であれ、流れゆく現在の中ではすべてが四次元主義である。見よ、そのjpegはもう古い。タイムスタンプは二次元主義者に四次元主義を告知する。見よ、彼女はすでに過去のままではない。記憶は三次元主義者に四次元主義を告知する。変化に眼を留めること、未来を歓待すること−−これが四次元主義の信条告白である。しかし到達した未来は未来ではない。この意味では通常の四次元主義は間延びした三次元主義である。本来的な四次元主義はそもそも志向性を持たない。彼は何も志向しない。ただ、作動するだけである。彼には頽落した出発点としての三次元主義と、絶えざる未来が開けているのである。

ここに真理はない。人は、ある一時でさえ、完全に例えば三次元主義であるのではない。人は、同時にあらゆる次元の人間であり得る。二次元でも四次元でも、あるいはn次元の性でも。つまり、我々は自由なのである。あるいはそうではない。欲望する機械は法を必要としないのである。二次元主義者だけが走っているのではない。誰もが逃走/闘争しているのである。死ぬまで闘争/逃走しているのである。あるいは死んでもなお。」